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1977 (48TH) SPARK ATS PENSKE PC4 H.HEYER
前代未聞 予選落ちも決勝レース走行 ハンス・へイヤー PENSKE PC4 ハンス・へイヤー(ドイツ) DTMの前身となるドイツツーリング選手権で 2度のチャンピオンとなったドライバー 1977年R11ドイツグランプリ へイヤーはATSでスポット参戦 レギュラードライバーはJ・Pジャリエ へイヤーは24位までの予選通過で 27位となりあえなく予選落ち 決勝は25位・26位のドライバーが辞退などで 事実上リザーブドライバー1番目としてスタンバイ しかし欠場車は現れずに決勝はスタート 決勝のスタートが機器のトラブルで シグナルで無くフラッグでスタートもあり オープニングラップは混乱 この混乱の中ハイヤーは ピットレーンからなんとレースに参加 当時は目視で計測等がされていたこともあり 気が付かずにレース続行 (地元ドイツ人であった為あえて見逃した説あり) 9週目にギアボックストラブルでリタイア この後 決勝進出不許可発覚で失格 DNQ(予選落ち) DNF(リタイア) DSQ(失格)を 一度のレースですべて記録した唯一のドライバー この後へイヤーはF1でエントリー無く これが唯一の出場となった モデルはSPARK R11ドイツGP仕様 マニアックなモデルをリリースする ドイツのRACE LAND別注モデル 予選不通過で決勝進出の資格なかったが 記録上は失格となり 決勝走行のドライバーとして扱われている (予選25位通過と記録されているモノもあり) 2360
241227 H.HEYER 1977 35FW12C
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1979 19TH SPARK ATS D2 H.J.STUCK
2世ドライバーハンス・スタック F1ラストレースでポイント ATS D2 1979年スタックは地元ドイツのチームで 前年度よりコンストラクターとなった ATSへ移籍 ドライバーは1人体制 ATSはドイツの自動車部品サプライヤー 前半戦は昨年の改良マシンD2で戦い マイナーチェンジしたD3を投入後 わずかながら成績が向上 R14カナダGP シーズンベスト予選12位 最終R15アメリカGP 予選14位 24台中16台リタイアのサバイバルレースを 生き残り5位入賞で2ポイント獲得 チームATSの初のポイント獲得と共に スタックはF1ラストレースとなり F1での通算入賞回数は12回であった スタックはF1での優勝は無かったものの その後はスポーツカー・ツーリングカーの分野で 1986・87年ポルシェ962で ル・マン24H 連覇 1990年アウディでDTMチャンピオン獲得している 🏁ハンス=ヨアヒム・スタック (ドイツ) 【決勝出走数】73回 (入賞12回-表彰台2回) 【予選最高位】2位 1977年 BRABHAM R15 アメリカEAST 【決勝最高位】3位(2回) 1977年 BRABHAM R11 ドイツ 1977年 BRABHAM R12 オーストリア
241108 H.J.STUCK 1979 9FW12C
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1977 19TH SPARK ATS PNSKE PC4 J.P.JARIER
ATS ペンスキー買収でF1参戦 ジャン・ピエール・ジャリエ PNSKE PC4 ドイツの自動車部品サプライヤーATS 1976年末F1でペンスキーを買収 1977年チームATSとして参戦 マシンはペンスキー製を使用 ドライバーは前年までシャドウに所属した ジャン・ピエール・ジャリエの1台体制 R4アメリカGPより参戦 予選9位→決勝6位 初戦でポイント獲得の活躍をみせたものの 以降の入賞は無くペンスキーは この年限りでF1から撤退 チームATSは翌1978年からは コンストラクター名もATSとして 1984年まで参戦する ジャリエは終盤シャドウとリジェからも 1戦ずつ参戦もポイント獲得はなかった モデルはスパーク R4アメリカWEST GP アメリカの名門PENSKEの車体の 最後のポイント獲得となった
240322 J.P.JARIER 1977 34FW12C
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1983 (26TH) SPARK ATS D6 M.WINKELHOCK
F1の歴史で初めてメス型成型マシン グフタス・ブルナー作 ATS D6 カーボン素材の技術が進歩 メス型成型をすれば別のカウリングを廃して 型から抜いたモノコック外皮をそのまま ボディとして使えるという発想が生まれ この技術に初めて挑戦したのが デザイナー グフタス・ブルナー 1983年 ATS D6の黒の部分は カーボン地肌そのままにされており 新しい製造方法をアピールする狙いもあった この後メス型成型は瞬く間に広がり F1のスタンダードとなった この年ATSは1台体制でドライバーは マンフレッド・ヴィンケルホック エンジンがBMWに変更された 予選では7位3回を含む シングルグリット8回獲得も 決勝ではリタイアが多く最高8位 後のスタンダードとなる技術も 初年度は試行錯誤で決勝レースで 結果を残すことはできなかった モデルはスパーク R14ヨーロッパGP(ブランズ・ハッチ) 予選9位→決勝シーズンベスト8位 後半戦のサイドポンツーンが 短くなったバージョン ヴィンケルホックはMarlboro契約 ドライバーでヘルメットやスーツに 同社のロゴの別添えデカールを貼付
240126 M.WINKELHOCK 1983 9FW12C
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1984 (22ND) SPARK ATS D7 BMW TURBO F1 G.BERGER
ゲルハルト・ベルガー F1デビュー 2戦目6位入賞 ATS D7 BMW TURBO F1 オーストリア出身のG・ベルガーは 家業のベルガー運送の拡大の為 父の猛反対もあり一度はレース人生を諦めた 同郷のヘルルート・マルコ(現レットブル顧問)の 父への説得もありレース生活を再開 1983年ヨーロッパF3に参戦 マルコのツテもありBMWとのパイプもできた 1984年そのBMWを登載したATSより R12母国オーストリアGPでF1デビュー 予選20位→決勝12位 モデル仕様 ベルガーのF1参戦2戦目となった R14イタリアGPでは早くも6位入賞 生涯の入賞回数は95回 チームがマーカス・ヴィンケルホックの 1台エントリーだった為ポイントは対象外 翌1985年はBMWのアロウズからフル参戦 引退する1997年まですべての年で入賞する #F1-1984年
221124 G.BERGER 400 31FW12C
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1984 (26TH) SPARK ATS D7 BMW TURBO F1 M.WINKELHOCK
チームATS最後のマシン ATS D7 チーム3年目 M・ヴィンケルホック ATSは前年度に続きBMWターボエンジン マンフレッド・ヴィンケルホックの1台体制 タイヤはグッドイヤー→ピレリに変更 予選では6~8位を各1回と上位に食い込むも 決勝では信頼性不足もあり8位が2回 以外はすべてリタイヤに終わる R12~は新人ゲルハルト・ベルガーが加わり 一時2台体制もヴィンケルホックは チームを離れ最終戦はブラバムから出走 ペンスキー・マーチを買収し 1978年より参戦したチーム ATSも 1984年をもって活動終了 チームオーナーのギュンター・シュミットは 1988年リアルで再びF1に参戦 ドイツのRACELAND別注モデル R13ドイツGP仕様 予選13位→決勝リタイア SPARKでは珍しいドライバーがコックピットを 降りる所を再現したモデル 試作画像見たときにイマイチかと思いましたが ドライバ―スーツの背中のMarlboroが目立ち スーツのしわも再現された面白い1台でした https://muuseo.com/FW12C/items/679?theme_id=34513 #F1-1984年 #F1親子鷹 #RACELAND
220910 M.WINKELHOCK 500 14FW12C
