-
1974 4TH HOT WHEELS FERRARI 312 B3 N.LAUDA
跳ね馬の新旗手 ニキ・ラウダ 自身初勝利 FERRARI 312 B3 1974年ラウダはBRMからフェラーリに移籍 チームメイトはクレイ・レガッツォーニ 開幕戦でいきなりの予選PP獲得 決勝2位で自身初の表彰台 ラウダの生涯PP-24回 表彰台-54回 R4スペインGP 予選PPからポールトゥウィン 自身初優勝 ラウダの生涯勝利数-25回 予選では15戦中PP-9回 R8オランダGPで2勝目など 途中ポイントランキングトップに立つも 終盤5戦連続でシーズンランキングは4位 この年にテスト走行の重要性を感じ 徹底した走り込みで翌1975年に備えた モデルはマテル エリートシリーズ R4スペインGP 予選PP→FL→優勝 ラウダの初優勝はフェラーリ通算50勝目 パッケージには表記が無いが モデルの裏側はHOT WHEELSブランド表記あり
250324 N.LAUDA 1974 3回FW12C
-
2001 9TH PMA JORDAN HONDA EJ11 J.TRULLI
ワークスHONDAエンジン搭載も不発 ヤルノ・トゥルーリ JORDAN HONDA EJ11 2001年トゥルーリはジョーダン2年目 チームメイトはH.H.フレンツェン リカルド・ゾンタ/ジャン・アレジ 前年度で無限エンジンが終了 HONDAワークス仕様のエンジンとなり ギアも6速→7速へバージョンアップした トゥルーリ得意の予選では 4位-2回 5位-6回 など全17戦中15戦で 4列目より前でスタート 決勝は4位-2回 5位-3回の入賞に留まり 途中5戦連続リタイアのあり 完走は半分の8回であった(失格1回) チーム内のゴタゴタもありこの年限りで ジョーダンを離脱しG・フィジケラと 入れ替わる形で翌2002年はルノーに移籍した モデルはミニチャンプス GP表記の無いRACE CAR タバコ禁止GP ジョーダンのモデルは1998年以来 3年ぶりにミニチャンプスでの発売 開幕戦レギュラーのトゥルーリ/フレンツェン F1最後となったアレジは発売されたが 2戦スポットのゾンタのみが未発売 2493
250319 J.TRULLI 2001 12FW12C
-
1951 3RD IXO FERRARI 375 F1 J.F.GONZALES
フェラーリ 記念すべき初PP&初勝利 J.F.ゴンザレス FERRARI 375 F1 ホセ・フロイラン・ゴンザレス(アルゼンチン) 太った体格と豪快な走りから パンパス・ブル(大草原の猛牛)と呼ばれた 1950年と1951年にプライベータで参戦後 1951年R4フランスGP 怪我のP.タルッフィの 代役でフェラーリから参戦 フェラーリのエースはアルベルト・アスカリ R4フランスGPで2位表彰台を獲得 R5イギリスGP 予選PP→決勝WIN フェラーリの歴史の中で記念すべき 予選-初PP 決勝-初優勝は いずれもゴンザレスがもたらしたものであった 2024年度末でフェラーリ PP-253回 優勝-248回 どちらも歴代1位 ゴンザレスは1951年にフェラーリで 参戦した5戦は全て表彰台(1位-1 2位-3 3位-1) 年間ランキングは3位 翌1952年から2年間マセラティに移籍 1954年に再びフェラーリに戻る モデルはIXO フェラーリ F1コレクション 61号 GP表記は無いがCar No.12から フェラーリ初優勝のR5イギリスGP仕様 当時はドライバーのレース中の 途中交代が認められており リタイヤしたNo.1ドライバーのアスカリに マシンを譲るべくピットインしたが アスカリが〖今日はお前の日だ〗交代を拒否 ゴンザレスの名前がフェラーリ初優勝の ドライバーとして刻まれた
250310 J.F.GONZALES フェラーリF1コレクション 1951FW12C
-
2001 15TH PMA JORDAN HONDA EJ11 J.ALESI
F1-200戦後の引退発表 ジャン・アレジ JORDAN HONDA EJ11 2001年アレジはプロスト離脱後 1989年F3000時代以来の古巣ジョーダンに移籍 チームメイトはヤルノ・トゥルーリ 移籍2戦目R14ベルギーGPで6位入賞 R16アメリカGPでF1参戦200戦目となり サイドポッドに200戦記念が施された 当該モデルはアメリカGP仕様 シーズンベストの予選9位→決勝7位 2001年9月11日に起こった アメリカ同時多発テロの追悼で エアボックスに星条旗を付け サイドポンツーンのスポンサー タバコブランド〖BENSON & HEDGES〗に変えて 〖Bitten Heroes〗に変更したモデル このGPで17戦連続完走となり 1975~1976年ニキ・ラウダ(フェラーリ) 1988~1989年アイルトン・セナ(マクラーレン) と並び当時の連続完走記録1位タイを樹立 しかし来シーズンのシートが確保できず 最終R17日本GPを前にF1引退を発表 ラストレースはキミ・ライコネン(ザウバー)の スピンに巻き込まれる形でリタイア 連続完走新記録・シーズン全戦完走ならなかった 急遽のデビュー戦で4位入賞 1990年開幕戦でのセナとのバトル 涙の初優勝など数々の名場面を作ったアレジ 記録よりも記憶に残るドライバーであった 2447 #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇫🇷ジャン・アレジ (フランス) 【決勝出走数】201回 (入賞70回-表彰台32回) 【予選最高位】🚩PP(2回) 1994年🟥FERRARI R12 イタリア 1997年🟦BENETTON R13 イタリア 【決勝最高位】🏆️優勝 1995年🟥FERRARI R06 カナダ 【FastestLap】🏁FL(4回) 1991年🟥FERRARI R01 アメリカ 1997年🟥FERRARI R05 モナコ 1996年🟦BENETTON R03 アルゼンチン 1996年🟦BENETTON R05 モナコ 【年間最上位】❹位(2回) 1996年🟦BENETTON 47ポイント 1997年🟦BENETTON 36ポイント
250216 J.ALESI 2001 4.464FW12C
-
2000 15TH PMA BENETTON PLAYLIFE B200 A.WURZ
アレキサンダー・ブルツ 自身最後のベネトン BENETTON B200 2000年ブルツはベネトンレギュラー3年目 チームメイトは3年連続G・フィジケラ フィジケラが前半8戦で 2位1回 3位2回など5度の入賞の中 ブルツは前半戦まさかのノーポイント 後半戦はフィジケラも失速しノーポイント ブルツはR14イタリアGPで ようやく5位でシーズン初ポイントを獲得も 入賞はこの1度限りとなった ブルツはこの年限りでベネトンを離れ 翌2001年はマクラーレンのテストドライバー 後2005年に同チームで代役でスポット参戦 モデルはミニチャンプス GP仕様無しのRACE CAR MILD SEVENEのブルーがベース タバコ禁止GPではチーム名の BENETTONがエンジンカバー等に貼られた
240227 A.WURZ 2000 12FW12C
-
1978 9TH QUARTZO FERRARI 312 T3 G.VILLENEUVE〖🏆1〗(USA WEST GP)
ジル・ヴィルヌーブ フル参戦初年度 アメリカ WEST GP トップ快走も・・ 1978年 フェラーリフル参戦初年度の ジル・ヴィルヌーブは 開幕戦決勝でFLの走りを見せるも8位 その後 2戦連続リタイアで迎えた R4アメリカ WEST GP ロングビーチ 予選は初となるフロントロー(2位)獲得 決勝は1勝目からトップに立ち 自身初のリードラップを記録 ヴィルヌーブのキャリアリードラップは534周 その後1度もトップをゆずることなく 初ポイント獲得が初優勝も見え始めた39/80周目 周回遅れでJ・P・ジャブイユ(ルノー)と バトルを繰り広げていた クレイ・レガッツォーニ(シャドウ)を抜く際に ヴィルヌーブ右前輪がレガッツォーニ左リアに ぶつかりウォールに飛ばされリタイア ヴィルヌーブの初P・初優勝は消え このGPの勝者はチームメイトの カルロス・ロイテマンとなった この後R6ベルギー4位で初ポイント 最終戦のR16カナダGPで初優勝を飾る モデルはQUARTZO R4アメリアWEST GP仕様 予選2位→決勝リタイア フェラーリ312T3はリアウイングの 形状がGPごとに大きく異なり 初優勝したカナダGP仕様とは逆の M字型のフラップとなっている https://muuseo.com/FW12C/items/1392?theme_id=41104
240212 G.VILLENEUVE 1978 1回FW12C
-
1982 (33RD) SPARK LOTUS 91 G.LEES
日本助っ人ドライバーパイオニア ジェフ・リース F1ラストLOTUS 91 ジェフ・リースは1980年数チームでF1に エントリーしたものの8戦中決勝は2回のみ 1981年はヨーロッパF2にステップダウンも 3勝をあげてシリーズチャンピオン 1982年はR8カナダGPにエンサインより スポット参戦予選25位→決勝リタイア 同年R11フランスGP 欠場したナイジェル・マンセルの代役で ロータスより出場 予選24位→決勝12位完走 これがF1でのラストレースとなった その後日本に渡り 1983年全日本F2 チーム イクサワで 8戦中4勝をあげてシリーズチャンピオン 1978~1986年開催した同シリーズで 唯一の外国人のチャンピオン 日本のモータースポーツにおける 外国人助っ人のパイオニア的存在で 1987年はF1 HONDAエンジンの テストドライバーも務めた モデルはスパーク R11フランスGP仕様 予選24位→決勝12位 タバコブランドJPSデカール加工 リースの1戦限りのロータス91 🏁ジェフ・リース (イギリス) 【決勝出走数】 5回(入賞0回 予選落7回) 【予選最高位】 16位 1979年 TYRRELL R10ドイツ 【決勝最高位】 7位 1979年 TYRRELL R10ドイツ https://muuseo.com/FW12C/items/697
240210 G.LEES 1982 12FW12C
-
1959 【WORLD CHAMPION】QUARTZO COPPER CLIMAX T51 J.BRABHAM〖🏆2〗
🔲🔲🔲1959🔲🔲🔲 👑WORLD CHAMPION👑 COPPER CLIMAX T51 🟩🟩J.BRABHAM🟩🟩 🔲🔲🔲全9戦🔲🔲🔲 【出走】8回【PP】1回 【優勝】2回【FL】1回 ジャック・ブラバム オセアニア地域初のチャンピオン 1959年名車クーパーT51を投入 開幕戦モナコGPで ジャック・ブラバムが初勝利 ファステストラップも記録 ブラバムの通算勝利14回 PP13回 R3オランダGP2位 R4フランスGP3位 R5イギリスGPで2勝目 最終のアメリカGPではガス欠で止まるも 最後はマシンを押しながら4位でゴール オセアニア地域初 クーパーとしても初の ワールドチャンピオンに輝いた モデルはQUARTZO 2勝目をあげたR5イギリスGP仕様 予選では自身初となるPP獲得 ブラバムの通算PPは13回
240204 J.BRABHAM 1959 1回FW12C
-
1963 13TH SPARK BRM LOTUS 24 J.HALL
シャパラル・カーズ創設者ジム・ホール F1唯一のフル参戦 BRM LOTUS 24 ジム・ホール アメリカ出身 石油探掘業を営む裕福な家庭に育ち 両親をで亡くしたのち遺産を引き継ぎ スポーツカーを購入してレース活動開始 1960年~1962年はプライベーターで 地元アメリカGPのみスポット参戦 1963年はBRMでロータスのマシンを使用 R5イギリスGP 予選13位→決勝6位 R6ドイツGP 予選16位→決勝5位 シーズン2度の入賞 後半は7戦連続完走 ホールのF1はこの年限り その後ホールはシャパラル・カーズを設立 1960年代に実験的で強力なレースカーを開発 アメリカのUSロードレーシング選手権(USRRC) カナダ-アメリカン・チャレンジカップ(Can-Am) ヨーロッパのスポーツカー世界選手権で活躍 1970年代末からCARTに挑戦しインディ500も制覇 モデルはSPARK 開幕戦モナコGP使用 ホールは予選13位→決勝リタイア クリームグリーンのカラーリングのマシン このGPはエントリー17台中 7台がLOTUSのマシンを使用している
231101 J.HALL 1963 12FW12C
-
1980 7TH PMA LOTUS FORD 81 E.DE.ANGELIS
アンジェリス ロータスシート獲得 自身初の表彰台LOTUS FORD 81 1980年アンジェリスは前年末のロータスの テスト走行にてN・マンセル E・チーバーなど シート争に勝ちロータスのシートを手に入れる チームメイトはマリオ・アンドレッティ モデル仕様のR2ブラジルGP 予選7位より決勝2位表彰台獲得 当時は弱冠21歳 アンジェリスの生涯表彰台回数は9回 その後ロータスのマシンの不振もあり 中盤戦は苦戦 後半戦で4位2回 6位1回 年間で4度の入賞で年間8位 チームメイトのマリオは入賞1回と大不振 翌1981年マリオはアルファロメオに移籍 アンジェリスは1985年までの6年間 チームロータスのエースとして君臨する
230602 E.DE.ANGELIS 12 1/43FW12C
-
1998 16TH PMA PROST PEUGEOT AP01 J.TRULLI
ヤルノ・トゥルーリ チーム最下位脱失 貴重な1ポイント PROST PEUGEOT AP01 1998年ヤルノ・トゥルーリは 前年度途中加入のプロストから レギュラードライバ―でフル参戦 チームメイトはオリビエ・パニス 無限→プジョーエンジンにスイッチするも 苦戦を強いられたチーム・プロスト 前半終了時点で両ドライバ―とも 決勝最高9位でコンストラクター最下位 R13ベルギーGP トゥルーリ予選13位 決勝は雨の混戦で上位陣がリタイヤの中 何とか生き残り6位入賞 貴重1ポイントはノーポイントの ティレル ミナルディを抜いて コンストラクター9位に浮上 トゥルーリ自身もこの1ポイントが 後にデビューから13年連続入賞を継続する 1998年唯一のポイントでもあった 翌1999年もプロストに残留し 自身初の表彰台を手に入れる
230430 J.TRULLI 12 1/43FW12C
-
1966 7TH SPARK BRM P261 J.STEWART 〖🏆1〗
フライング・スコット ジャッキー モナコGP初勝利 BRM P261 1966年ジャッキー・スチュワートは BRMでの2年目のシーズン チームメイトはG・ヒルなど モデル仕様の開幕戦モナコGP 予選3位から2位に40秒の差をつけて優勝 自身初のモナコ制覇(通算モナコ3勝) G・ヒルのモナコ4連覇を阻止した形 このGPは100周で争われ 完走はエントリー16台中僅かの4台 完走4台中3台がBRMのマシンだった この後ジャッキーは4位・5位の入賞のみ チームは新型エンジンH型16気筒の開発を 進めるも水平対向8気筒を2段重ねという F1史上類を見ないレイアウトで 重量過多・高重心が仇となり苦戦 年間順位は前年度新人ながら 3位 34ポイント→7位 14ポイントと 大きく成績を落としてしまう 翌1967年ジャッキーは残留するも グラハム・ヒルはチームを離脱 BRMも3年間未勝利の低迷期に入る #F1-1966年
J.STEWART 12 1/43 BRMFW12C
-
1978 9TH QUARTZO FERRARI 312 T3 G.VILLENEUVE〖🏆1〗(CANADIAN GP)
ジル・ビルヌーブ フェラーリフル参戦 地元カナダで初勝利 FERRARI 312 T3 1978年ジル・ビルヌーブのフェラーリ フル参戦1年目は若きジルの象徴的な1年 R1開幕戦アルゼンチンGPで初のファステスト R4アメリカWEST GP予選2位から首位を独走 しかしC・レガッツォーニ(シャドウ)に追突 大クラッシュを起こしリタイア R6ベルギーGP 4位初入賞 R12オーストリアGP 3位初の表彰台 R14イタリアGP予選2位から2位フィニッシュ しかしフライングのペナルティーで結果7位 R16カナダGP 地元モントリオールの 新設 イル・ノートルダム・サーキット 予選3位からJ・P・ジャリエ(ロータス)の リタイアにも助けられて 50周目にトップに立ち優勝 自身の初勝利はカナダ人ドライバ―の初勝利 現在までもカナダ人ドライバ―のF1勝利は ビルヌーブ親子(ジル6勝 ジャック11勝)のみ イル・ノートルダム・サーキットは後に ジル・ビルヌーヴ・サーキットと 名称変更になった #F1-1978年
230201 G.VILLENEUVE 1978 1回FW12C
-
1997 8TH PMA JORDAN PEUGEOT 197 G.FISICHELLA
ジャンカルロ・フィジケラ ジョーダン移籍 初ポイント・初表彰台・初FL JORDAN 197 G・フィジケラはミナルディからジョーダンへ ラルフ・シューマッハと24歳・21歳の若いコンビ R3アルゼンチンで同士討ちで早くも関係悪化 R4サンマリノGPで予選6位→決勝自身初入賞4位 フィジケラの通算入賞回数は73回 R6スペインで初ファイナルラップ R7カナダで3位 R12ベルギーで2位 表彰台2回獲得 通算表彰台は19回 R10ドイツGPでは予選2位から G・ベルガー(ベネトン)と高速バトルで 優勝を争ったも結果はパンクで最終11位 この年ジョーダンはスポンサーの B&Hの意向もあり鮮やかなイエローに変更 チームが終了する2005年までこのカラー継続 戦闘機のノーズアート風のグラフィックで ノーズコーンをスネークヘッドに見立てた カラーリングが注目された遊び心ある1台
221104 G.FISICHELLA 1回 12FW12C
-
1981 14TH PMA LOTUS FORD 88 N.MANSELL
ロータス フル参戦1年目 N・マンセル 失意の地元イギリスGP 予選落ち 1981年マンセルはロータスで初のフル参戦 TMはエリオ・デ・アンジェリス ロータスは可動式カウルを被せた ツインシャーシ LOTUS FORD 88を導入するも レギュレーション違反で決勝では走行できず R8イギリスGPでは冷却系などを プライマリーシャーシに移設した 改良版である88Bを導入するも結果は同じで プラクティスは走行できたものの 予選では使用できず マンセルはこの影響もあって 地元イギリスGPでまさかの予選落ち ロータスはシーズン途中でメインスポンサー エセックス石油のデビット・ティーメが 訴訟問題に巻き込まれてスポンサーを撤退 再びJPSカラーの漆黒に変更します マンセルは旧型のロータス81Bで R5ベルギーで初入賞&表彰台を獲得 年間順位は16位と振るわずもロータス残留 #F1-1981年
220918 N.MANSELL 1584 12FW12C
