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1977 6TH PMA McLAREN FORD M26 J.MASS
キャリアベストのシーズン6位 ヨッヘン・マス McLAREN FORD M26 1977年マスはマクラーレン3年目 チームメイトは変わらずジェームス・ハント 旧型M23で前半戦を戦い R2ブラジルGP キャリアベストタイ予選4位 R8スウェーデンGP シーズンベスト2位表彰台 先行してハントがドライブしていた ニューマシンM26をR10イギリスGPから マスにも供給され予選11位→決勝4位 R16カナダGP 周回遅れのマスをハントがパスずる際に接触 ハントがリタイアに追い込まれ激高 なだめるマーシャルを暴行する事件が発生 このGPでマスは最終3位表彰台獲得も 翌1978年もハントの残留が決まっており マスはマクラーレンから離脱する事となった この表彰台がキャリア最後の8度目 R17日本GP予選8位→決勝リタイアに終わるも マスのキャリアベストランキング6位となった モデルはミニチャンプス McLaren EDITION No.98 R10イギリスから使用のM26 M26は前年度1976年オランダGPのみ マスが決勝で使用し9位完走を果している 2390
250122 J.MASS 1977 2.136FW12C
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2001 3RD HOT WHEELS FERRARI F-2001 R.BARRICHELLO
コンストラクター 2連覇貢献 R・バリチェロ FERRARI F-2001 2001年フェラーリ2年目の ルーベンス・バリチェロ ミハエル・シューマッハとのコンビ 前年度涙の初優勝からこの年は未勝利 しかし前年度を上回る8度の表彰台 2位5回 年間ランキングもこれまでの自己最高3位 フェラーリのコンストラクター2連覇に貢献 ミハエルには予選で1勝16敗 決勝でもミハエルに勝ったのは ミハエルがリタイアを除くと R14イタリアGP(バリチェロ2位 ミハエル4位)のみ R6オーストリアGP バリチェロは2位走行もチーム指示で ミハエルに譲り3位でフィニッシュ その後も所謂チームオーダーが出され これが翌2002年に大きな問題となり チームオーダー禁止のレギュレーションに つながる出来事となった モデルはHOT WHEELS GP表記無しのRACE CAR仕様 タバコ禁止GPのMarlboroロゴ無し ロリー・バーン作のF-2001 先端の垂れたスラントノーズ 中央部が穏やかに下がっている 3Dフロントウイングが特徴 2351
241223 R.BARRICHELLO 2001 2FW12C
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1967 5TH BRUMM FERRARI 312 F1 C.AMON (GP ITALIA)
孤軍奮闘もイタリアGP勝利ならず クリス・エイモン FERRARI 312 1967年フェラーリはエース格の ロレンツォ・バンディーニが火傷で死亡 代わりのマイク・パークスも重症事故 前年度フェラーリで勝利をあげた ルドビコ・スカルフィオッティも離脱 残されたエイモン1人体制で戦った 出走レース7回中入賞6回(表彰台4回)で迎えた フェラーリ地元R9イタリアGP 新たに4バルブ化したエンジンを投入 この年脅威となったFORD DFVエンジンに対抗した 予選は2列目4番手スタート 決勝はトップ争いには絡めず 最終的には4周遅れの完走扱い7位で終了 このGPは皮肉にも前年でフェラーリを離脱 HONDA RA300の初戦となった ジョン・サーティス(イギリス)が リードラップ1周で劇的な勝利をあげている モデルはBRUMM R9イタリアGP仕様 予選4位→決勝7位 ドライバーレス 4バブル化によりエンジン出力は公称410馬力 エイモンはフェラーリ時代のイタリアGPは 出走 2年ともポイント獲得ならなかった 1967年イタリアGP優勝 HONDA RA300↓ https://muuseo.com/FW12C/items/1668?theme_id=34513
241117 C.AMON 1967 2FW12C
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1974 10TH SPARK LOTUS 76 J.ICKX
フェラーリから移籍ジャッキー・イクス 失敗作 LOTUS 76 JPS Mk.I 1974年前年度フェラーリを 途中離脱したジャッキー・イクスは 名門ロータスに移籍 チームメイトはロニー・ピーターソン 旧モデルロータス72Eで R2ブラジルGP 予選5位→決勝3位 移籍後の初入賞を飾る R3南アフリカGPから新車LOTUS76を投入 変速時のクラッチ操作をシフトレバーの スイッチで行う電磁クラッチなるものを採用 これは後に普及する 2ペダルシフトと セミオートマチックシフトの先取りの発想 しかし新システムに慣れなかった事もあり イクスは導入から3戦連続のリタイア 一旦LOTUS72Eに戻された後 再度76を導入も再び連続リタイア 結局旧車LOTUS72Eが導入さたGPでの 3位2回など4度の入賞にとどまり LOTUS76では5戦中すべてリタイア 年間ランキングは12ポイントで10位 モデルはスパーク R5イクスの地元ベルギーGP仕様 予選16位→決勝リタイア SPARKのF1初期のシルバースリーブと SPARKロゴ台紙仕様 タバコブランド John Player Special貼付加工
240615 J.ICKX 1974 2FW12C
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1971 【WORLD CHAMPION】PMA TYRRELL 003 J.STEWART〖🏆6〗
🔲🔲🔲1971🔲🔲🔲 👑WORLD CHAMPION👑 TYRRELL 003 🟦🟦J.STEWART🟦🟦 🔲🔲🔲全12戦🔲🔲🔲 【出走】11回【PP】6回 【優勝】 6回【FL】3回 2度目のワールドチャンピオン
240504 J.STEWART 2回 2FW12C
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2000 3RD PMA McLAREN MERCEDES MP4‐15 D.COULTHARD〖🏆3〗
飛行機事故から奇跡の生還 デビッド・クルーザード MP4-15 2000年マクラーレン5年目のクルザード チームメイトも5年連続M・ハッキネン R4地元イギリスGPシーズン初優勝を飾る イギリスGPは2年連続での勝利 そのGP後当時の恋人と搭乗した プライベートジェット機が墜落事故 パイロットと副操縦士が残念ながら死亡 しかしクルザードと恋人は奇跡的に生還 事故直後のR5スペインGPでは肋骨にヒビが 入りながらも2位表彰台を獲得 R7モナコ R9フランスでも勝利 R12ハンガリーGP時点では2点差で チャンピオン争いにも絡んだ 終盤は失速して年間ランキングは3位 シーズン3勝はキャリアベストとなった モデルはミニチャンプス チームのロゴが入ったオリジナル台紙 マクラーレンEDITIONのNo.30 タバコWEST禁止GPでのDavidのロゴ仕様 台紙のMP4/15→MP4-15の表記間違い
240310 D.COULTHARD 2000 3回FW12C
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1979 7TH PMA LOTUS 79 C.REUTEMANN (GP ITALIAN)
通常版とは異なり後に発売された 1979年ロータス79 カルロス・ロイテマン R13 イタリアGP仕様車 1979年後半戦はLOTUS79のBスペック ともいうべきマイナーチェンジが施され モデルカーはドライバーフィギュア等の 改良バージョンで発売 かつてイギリスにあった石油会社 エセックス・ペトロリウムがサイドポッド イタリアの酒造メーカー マルティーニ・エ・ロッシの カラーリングも変更されている イタリアGP ロイテマンは 予選14位→決勝7位 全15戦中 前半7戦は6度の入賞 後半8戦は入賞無しに終わり ロータスを1年で去りウイリアムズに移籍 このイタリアGPはチームメイトの マリオ・アンドレッティが後半戦で チーム ロータス唯一となる5位入賞している ブリティッシュ グリーンと マルティーニのロゴはこの年限りであるが ミニチャンプスで2種発売された事? またこの年のロータスの成績不振もある為? セコハン市場でも価格は抑えられている ⬇️通常版 ロータス79 ロイテマン https://muuseo.com/FW12C/items/699?theme_id=34203
240228 C.REUTEMANN 1979 2FW12C
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1957 【WORLD CHAMPION】 BRUMM MASERATI 250F J.M.FANGIO 〖🏆4〗
🔲🔲🔲1957🔲🔲🔲 👑WORLD CHAMPION👑 MASERATI 250F 🟥🟥J.M.FANGIO🟥🟥 🔲🔲🔲全8戦🔲🔲🔲 【出走】7回【PP】4回 【優勝】4回【FL】2回 ファンジオ最後の5度目 マセラッティ唯一のチャンピオン モデルはブルム 開幕戦アルゼンチンGP仕様 予選2位→決勝WIN #1957年
231223 J.M.FANGIO 1957 2回FW12C
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1999 4TH PMA McLAREN MERCEDES MP4‐14 D.COULTHARD
デビッド・クルザード2勝上げるも コンストラクター連覇逃す MP4-14 1999年マクラーレン4年目のクルザード チームメイトは変わらずM・ハッキネン ニューマシンのMP4-14は エイドリアン・ニューウェイのデザイン 前年のMP4-13と外見は変わらないものの リアの絞込み ラジエーターコンパクト化 重量配分の見直し ホイールベースの短小化 など大きくコンセプトを変更した クルーザードは予選でPPは無かったものの 予選全てで2列目より前のスタート しかし決勝ではメカニカルトラブルが クルザード車中心に多く発生した それでもR8地元イギリスGP R12ベルギーGP と2勝を上げてR12イタリアGP時点では ワールドチャンピオン争いに残った そこからまさかの3戦連続のリタイア チャンピオン争いから脱落するだけでなく コンストラクターもフェラーリに敗れた 結局チャンピオンのハッキネンの 約2/3のポイント48Pで年間4位に終わった モデルはMINICHAMPS McLaren EDITION シリーズ台紙の28番目 タバコ【WEST】加工しております
230911 D.COULTHARD 1999 3回FW12C
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1980 14TH HOT WHEELS FERRARI 312 T5 G.VILLENEUVE
フェラーリ最後の312TシリーズT5 ジル・ビルヌーブ苦難のシーズン 1980年前年チャンピオンチーム フェラーリは312T5を開幕戦より投入 グランド・エフェクトに対応する為 モノコック前部の幅を短縮 サスペンションアームを鋼板溶接構造に変更 エンジンのシリンダーヘッドの幅狭くした しかしこれが裏目となって操縦性は悪化 エンジンの信頼不足 ミシュランタイヤとの 相性も悪くタイヤ交換を繰り返すレースが多発 ジル・ビルヌーブは5位2回 6位2回の 決勝入賞は4回に終わりこの年6ポイントで 並んだ5名のドライバ―の中の 最下位で年間順位は14位に終わった それでも予選ではR2ブラジルGPの3位など チームメイトのジョディ・シェクターに 全14戦中13勝1敗と圧勝した フェラーリは1973年以来となる未勝利 1975年から栄光を掴んだ312Tが終了 翌1981年~は126CKと変更になった モデルはHOT WHEELSのエリートシリーズ 開幕戦アルゼンチンGP仕様 予選8位→決勝リタイア
230824 G.VILLENEUVE 1980 5.000FW12C
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1961 【WORLD CHAMPION】QUARTZO FERRARI DINO 156 P.HILL〖🏆2〗
🔲🔲🔲1961🔲🔲🔲 👑WORLD CHAMPION👑 FERRARI DINO 156 🟥🟥P.HILL🟥🟥 🔲🔲🔲全8戦🔲🔲🔲 【出走】7回【PP】2回 【優勝】5回【FL】2回 1961年は全8戦のシーズン R6終了時点でフェラーリのフィル・ヒルは 僚友ヴォルフガング・フォン・トリップスに 4ポイント差での2位 R7イタリアGP PPスタートのフォン・トリップスは ジム・クラーク(ロータス)と接触 観客を巻き込む事故となり自身も即死 フィル・ヒルはこのGPにシーズン2勝目 フォン・トリップスの死亡により アメリカ人初のワールドチャンピオン誕生 しかしレース後に僚友の死を聞かされた ヒルは表彰台で人目も気にせず号泣 最終戦地元で凱旋となるはずだった アメリカGPはチームとも欠場した フィル・ヒルの通算勝利数は3勝は 1958年のマイク・ホーソン(イギリス)と 並びワールドチャンピオン通算最少勝利数 1960年イタリアGPでのDINO 246での優勝は フロントエンジン搭載車の最後の勝利
230604 P.HILL 1961 2回FW12C
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1990 5TH LOOK SMART FERRARI 641/2 N.MANSELL〖🏆1〗
美しきフェラーリ FERRARI 641/2 N・マンセル 1990年フェラーリはニューマシン FERRARI 641を開幕戦より投入 R3サンマリノGP マイナーチェンジが E・スカラブローニ S・ニコルズより 施されFERRARI 641/2とされた モデルはR6メキシコGP仕様 予選4位のマンセルは終盤3位を走行 2位走行のG・ベルガー(マクラーレン)を アクセル5速全開で180度旋回する 最終難関コーナー ペラルターダで アウト側から豪快に抜き2位に浮上 チームメイトのA・プロストと フェラーリ1・2フィニッシュを決めた 2015年にメキシコGPが復活した際に ペラルターダは低速コーナーに改修され 〖ナイジェル・マンセル・ターン〗 と命名され現在に至る このメキシコGPのサーキットは エルマノス・ロドリゲス・サーキット 1960年代のメキシコの誇るドライバ― レース中に残念ながら事故死している ペドロとリカルドのロドリゲス兄弟に 対して哀悼の意を込めて命名されている 1965年のホンダとグッドイヤーの ドライバ― リッチ・ギンザーによる F1初勝利のサーキットでもあります #F1-1990年
230402 N.MANSELL 3回 700FW12C
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1998 7TH PMA WILLIAMS MECACHROME FW20 H.H.FRENTZEN
ウイリアムズ黄金期の終焉 WILLIAMS FW20H・H・フレンツェン 1998年フレンツェンはウイリアムズ2年目 デザイナーのA・ニューウェイの離脱と 最強を誇ったルノーエンジンの撤退で 前年チャンピオンチームは一転不振に陥る フレンツェンは開幕戦で3位表彰台 これはマクラーレン1・2フィニッシュに 周回遅れにされてのかろうじての3位 この年の表彰台はこのGP 1戦のみ マシンの開発が進まなかった事もあるが ウイリアムズのドライバ―に対して 高圧的な態度もフレンツェンには合わず それが成績低迷した原因である所も大きい 16戦中入賞7回 17ポイントで年間7位 この年限りでウイリアムズを離脱 翌1999年はジョーダン無限に移籍 タバコスポンサーがロスマンズから 当時の子会社のオーストラリアの ウインフィールドに代わりカラーリングも変更 タバコ禁止GPではカンガルーのロゴに変わった #F1-1998年
230318 H.H.FRENTZEN 2 1/43FW12C
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1962 15TH SPARK PORSCHE 718 J.BONNIER
ヨハキム・ヨー・ボニエ スウェーデン出身 赤いポルシェ PORSCHE 718 スウェーデン出身の勝利者は3人 ロニー・ピータソン(10勝) グンナー・ニールソン(1勝) 一番最初に勝ったのは ヨハキム・ヨー・ボニエ(1勝) 1959年BRM R3オランダ優勝 1962年は前年より所属のポルシェで参戦 ニューマシンPORSCHE 804が投入されたが R2 モナコGPは旧型のPORSCHE 718で 予選16位→決勝5位入賞を果たしている モデルはスリーブがPORSCHE MUSEUM仕様 ドイツにあるポルシェミュージアム限定で 配布されているようだが どのような形で配布されているのか不明 ボニエは1960年BRM所属時に チームメイトのグラハム・ヒルに 子供が誕生した時の命名者で その子供にデーモン(・ヒル)と名付けた また1968年第1期HONDAの最終戦 R12メキシコGPで5位入賞している
J.BONNIER PORSCHE MUSEUM 2 1/43FW12C
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1978 6TH PMA BRABHAM BT46B "FANCAR" J.WATSON
デザイナー ゴードン・マレーの奇策 BRABHAM BT46B ファン・カー 1978年ブラバムは大柄の アルファロメオ水平対向V12エンジンでは 効果的なウイングカーを設計できなかった その打開策としてR8スウェーデンGP 車体後部に大型の送風機を装備した いわゆる ファン・カーを導入 ファンにより強力なダウンフォースを発生させ コーナリング速度の向上を図った デザイナーのゴードン・マレーは ファンの主目的はエンジン冷却用との 名目にして使用認可を得た 練習走行はあえてフルタンク ハードタイヤ で速さを隠し 予選ではワトソンは2番手 決勝ワトソンはスロトルトラブルでリタイアも TMのN・ラウダが途中より独走して優勝 その圧倒的なコーナリング速度を 目の当たりした他のチームより 後続車に石などを撒き散らすことが危険であると 抗議がなされて結局1戦限りで使用禁止となった #F1-1978年 #F1 #1978年
221214 J.WATSON 1978 2FW12C
