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1977 15TH PMA BRABHAM ALFA ROMEO BT45B C.PACE
南アフリカGP後の飛行機事故死 C.パーチェ BRABHAM ALFA ROMEO BT45B 1977年カルロス・パーチェはブラバム残留 チームメイトはペンスキーより ジョン・ワトソン(イギリス)が移籍 前年度信頼性不足であった アルファロメオエンジンが改善された事もあり パーチェは開幕戦 予選6位→決勝2位表彰台 結果的にパーチェキャリア最後の6回目表彰台 R3南アフリカGP トム・プライス(シャドウ)がレース中に事故死 そのわずか13日後 パーチェ地元ブラジルの サンパウロ近郊で民間の軽飛行機事故で 残念ながら帰らぬ人となった 享年32歳 パーチェが唯一のグランプリ勝利を記録した インテルラゴス・サーキットは 彼の功績をたたえて アウトドローモ・ホセ・カルロス・パーチェと 改名され 現在もブラジルGPの開催地となっている モデルはミニチャンプス GP表記は無いがBT45Bの車体名称より 彼の最後のGPとなったR3南アフリカGP仕様 予選は生涯6度目のフロントロウ(2位) 決勝はトラブルもあり13位 パーチェ亡き後はH.J.スタックがドライブ #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇧🇷カルロス・パーチェ (ブラジル) 【決勝出走数】72回 (入賞16回-表彰台6回) 【予選最高位】🚩PP 1975年 BRABHAM R03 南アフリカ 【決勝最高位】🏆優勝 1975年 BRABHAM R02 ブラジル 【FastestLap】🏁FL(5回) 1973年 SURTEES R11 ドイツ 1973年 SURTEES R12 オーストリア 1974年 BRABHAM R13 イタリア 1974年 BRABHAM R15 アメリカ 1975年 BRABHAM R03 南アフリカ 【年間最上位】❻位 1975年 BRABHAM 24ポイント
250417 C.PACE 1977 648FW12C
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2001 17TH PMA BENETTON RENAULT SPORT B201 J.BUTTON
最後のベネトン←レンタル移籍 ジェンソン・バトン BENETTON B201 2001年前年度ウイリアムズで 新人らしからぬインパクトを残した ジェイソン・バトンであったが CARTチャンピオン J・P・モントーヤの 加入によりウイリアムズのシートを失い ベネトンにレンタル移籍となった チームメイトはジャンカルロ・フィジケラ エンジンパワー不足などで戦闘力の低いB201 バトンはR4~R6まで3戦連続 予選 22台中21位と厳しい戦い R12ドイツGP 決勝5位が唯一の入賞 最終戦鈴鹿ではシーズンベストの予選9位 決勝は惜しくも入賞一歩手前の7位フィニッシュ 終盤戦で改善の兆しが見えた所で 1986年設立されたベネトンF1が終焉を迎え 翌年からはルノーとなりバトンは残留 モデルはミニチャンプス オリジナルはJENSONのドライバー名の車体を タバコブランド【MILD SEVEN】に変更 カラフルで派手な色彩でF1にインパクトを与えた ベネトンのマシンの最後は シンプルなマイルドセブンのブルーであった
250225 J.BUTTON 2001 8FW12C
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2005 9TH PMA WILLIAMS BMW FW27 N.HEIDFELD
the story will be at a later date. 2354
241225 N.HEIDFELD 2005 8FW12C
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1992 (DNQ 37TH) SPARK BRABHAM BT60B G.AMATI
現在までの最後の予選出場 女性F1ドライバー ジョバンナ・アマティ BRABHAM BT60B ジョバンナ・アマティ(イタリア) 資産家の家庭で育ち父の経営する 自動車工場で幼少期を過ごし車に興味を持つ 1987年~1991年 国際F3000に参戦 1991年の決勝最高7位がベスト 入賞は無かった 1992年ブラバムは当初全日本F3チャンピオン 全日本F3000でも勝利をあげた中谷明彦と 契約を結ぶもスーパーライセンスが発給されず 急遽ジョバンナ・アマティと契約 チームメイトはエリック・ヴァン・デ・ポール 女性ドライバーの予選出場は 1980年R8イギリスGP デジレ・ウイルソン(南アフリカ)以来12年ぶり アマティで通算5人目 1976年レラ・ロンバルディ(イタリア)以来の 決勝進出を目指すもR1~R3いずれも予選30位 持込スポンサーマネーの入金が遅れ 資金難のブラバムは残念ながらアマティを解雇 ウイリアムズのテストドライバーであった グラハム・ヒルの息子 デイモン・ヒルを起用した 以降女性ドライバーの予選出場は無く 2013~14年スージー・ヴォルフ(イギリス)が ウイリアムズでフリー走行合計4回出場したのみ モデルはSPARK 開幕戦 南アフリカGP仕様 予選落ち アマティはMarlboro個人契約ドライバーで ヘルメット/スーツにMarlboroデカール貼付 BT60Bの特徴である吊り下げウイングの 補助ワイヤーも再現されている このGPではチームメイトのヴァン・デ・ポールが 予選ギリギリの26位で通過→決勝13位完走 しかしその後は9戦連続予選落ち アマティの後任のデイモン・ヒルも 8戦中予選通過は2回のみ チーム ブラバムはR11ハンガリーGPが最後で 1962年初参戦~の長い歴史に幕を閉じた
241205 G.AMATI 1992 8FW12C
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1961 (30TH) SPARK (SCUDERIA COLONIA) LOTUS 18 M.MAY
F1出走回数2回 エンジニアで名を馳せる ミハエル・メイ LOTUS 18 ミハエル・メイ スイス出身 ミハエル/ミッシェル/マイケルなど 日本語表記は複数存在するドライバー 1961年かつての西ドイツF1ドライバー ヴォルフガング・ザイデルが立ち上げた プライベーター スクーデリア・コロニアで ロータス18のマシンでスポット参戦 開幕戦モナコGP/R4フランスGPに出場 R6ドイツGPのフリー走行中にクラッシュし ドライバーとしては引退 F1では決勝出場わずか2戦のドライバー メイはエアロダイナミクスのパイオニア でもありポルシェの燃料噴射システムを開発 1956年にポルシェ550を設計にも携わった また1963年にはF1でフェラーリ158の 開発にも携わりエンツォ・フェラーリを説得し スポーツカーのリムをマグネシウムに 変更させるなどエンジニアとも活躍した モデルはSPARK 開幕戦モナコGP仕様 予選14位→決勝リタイア 赤を散りばめた特徴的なヘルメット 黒/白のラインをフロント2本・リア1本施した この時代としてはハイセンスなデザイン
241103 M.MAY 1960 8FW12C
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1976 14TH TSM BRABHAM BT45 C.PACE
不発のアルファロメオエンジン C・パーチェ BRABHAM BT45 前年度ブラバムで初優勝を決めた カルロス・パーチェはチーム残留 チームメイトは前年同様ロイテマン ブラバムはフォードエンジンから 水平対向12気筒のアルファロメオに変更 パワーは申し分なかったものの 重量過多で燃費も悪く信頼性も低かった パーチェはR8フランス R10ドイツでの 2度の決勝4位が最高で年間入賞は3回 年間ランキングは14位で前年6位から後退 ◆R16日本GP(富士)予選6位→決勝リタイア◆ 前年の白ベースのマシンからカラー変更 アルファレッドの鮮やかなマシンであったが エンジンの不振もあり成績は振るわなかった モデルはTRUE SCALE MINIATURES MODEL R3アメリカWEST仕様 予選13位→決勝9位 ゴードン・マレー作BT45は 翌1977年は主にBスペックで年間使用 翌々年1978年はCスペックとして R2まで使用されN・ラウダもドライブした RN-2164
240521 C.PACE 1976 8FW12C
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1964 4TH IXO FERRARI 1512 L.BANDINI〖🏆1〗
L・バンディーニ 唯一の勝利 終盤2戦は青いフェラーリで参戦 1964年 バンディーニはF1 通算4年目 フェラーリで自身初のシーズンフル参戦 チームメイトは ジョン・サーティス R5イギリスGP 決勝5位シーズン初入賞 R6ドイツGP 決勝3位 と調子を上げると R7オーストリアGP 予選7位 ダン・ガーニー(ブラバム)がリタイアすると 47周目からトップに立ちそのままフィニッシュ 決勝参戦21戦目にして初優勝 結果的にバンディーニF1唯一の勝利となった 当年フェラーリの他カテゴリーでのトラブルで イタリア自動車協会に競技ライセンスを返上 終盤2戦の北米ラウンドでは 米のディーラー系チーム ノースアメリカンとして 参戦して青字に白いストライプという アメリカのナショナルカラーにペイントで参戦 サーティスがチャンピオンを獲得した モデルはIXO デアゴスティーニ F1マシンコレクション 83号 最終戦R10メキシコGP仕様 予選3位→決勝3位 バンディーニはエースのサーティスに順位を 譲りチャンピオン獲得をサポート フェラーリのコンストラクターの タイトル獲得にも大きく貢献した
240509 L.BANDINI F1マシンコレクション 1964FW12C
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1977 11TH PMA BRABHAM ALFA ROMEO BT45B H.J.STUCK
ハンス・スタック ベストシーズン 自身初&連続表彰台 BRABHAM BT45B 1977年スタックはR3南アフリカGPに ロスマンズのマーチでエントリー R4アメリカWESTからは飛行機事故で他界した カルロス・パーチェの後任として ブラバム・アルファロメオに移籍 チームメイトはジョン・ワトソン 3度の入賞して迎えたR11ドイツGP 予選5位→決勝 自身初の3位表彰台獲得 R12オーストリアGPでも連続の3位 スタックのキャリア表彰台はこの2度のみ R15アメリカEASTでキャリア唯一となる 予選フロントロー獲得 オープニングラップから14周 こちらも唯一となるリードラップを記録も ヘビーウェットコンディション中 単独スピンでリタイア 勝利を逃した 年間では5度の入賞で15ポイント ワトソン(13位)を上回るランキング11位 スタックのキャリアベストシーズン しかしニキ・ラウダ加入に伴いシート喪失 スタックは翌1978年はシャドウに移籍 モデルはミニチャンプス GP仕様表記無しのRACE CAR仕様 ゴードン・マレー作の1976年導入した BT45の改良版Bスペック仕様 BT45Cとして翌1978年R2まで使用された マルティニレーシングのスポンサーは この年限りでブラバムは終了
240408 H.J.STUCK 1977 8FW12C
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1974 (27TH) SPARK BRABHAM BT44 R.OPEL
リヒテンシュタイン出身 オペル一族 リッキー・フォン・オペル リッキー・フォン・オペル 出生地はアメリカ 国籍はF1で唯一となるリヒテンシュタイン 曾祖父はドイツ自動車メーカー オペルの創始者アダム・オペル 1972年イギリスF3 チャンピオン 1973年エンサインからF1デビュー 1974年開幕戦のみをエンサイン R4スペインGPより R・ロバーツの代わりに ブラバムのセカンドドライバーとして出場 資金持ち込みでシート獲得 R4スペイン R5ベルギー 連続リタイア R6モナコは予選落ち R7スウェーデンGP予選20位→決勝9位 R8オランダGP予選23位→連続決勝9位 R9フランスGPは予選落ち この後ブラバムのセカンドドライバーは カルロス・パーチェとなり リッキー・フォン・オペルの F1でのキャリアは終了 その後タイの田舎にある仏教僧院で僧侶となり 外界との連絡を絶っている状態と言われている モデルはスパーク R7スウェーデンGP仕様 予選20位→決勝9位 ゴードン・マレー作 三角断面モノコックなど 特徴的なフォルムのBT44 シーズン終了後 富士スピードウェイで F1のデモンストレート・ランに カルロス・ロイテマンがこのマシンで出走 桑島正美もBT44をテスト走行させている 🏁リッキー・フォン・オペル(リヒテンシュタイン) 【決勝出走数】 11回(入賞0回 予選落ち回) 【予選最高位】 10位 1973年 ENSING R10オランダ 【決勝最高位】 9位(2回) 1974年 BRABHAM R7 スウェーデン 1974年 BRABHAM R7 オランダ
240215 R.OPEL 1974 8FW12C
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2000 (17TH) HOT WHEELS JAGUAR R1 J.HERBERT
新生ジャガー・レーシング ジョニー・ハーバート引退 JAGUAR R1 2000年スチュワートグランプリを フォードが買収し当時傘下にあった ジャガーブランドでF1に参戦 往年のブリティッシュグリーンを纏い ビッグキャットのロゴデザインが描かれた 前年度スチュワートに初優勝をもたらした ジョニー・ハーバートが残留 チームメイトはエディ・アーバイン チームは前年の勢いがなく 人事面のゴタゴタもあり低迷 ハーバートは予選8位 決勝7位がベスト 36歳となったこの年でF1からの引退を表明 1989年ベネトン参戦から12年 予選はフロントロー無し 決勝はファステストラップ無しながら F1通算3勝をあげてそのキャリアを終えた #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇬🇧ジョニー・ハーバート(イギリス) 【決勝出走数】159回 (入賞29回-表彰台7回) 【予選最高位】④位(2回) 1995年 BENETTON R1 ブラジル 1995年 BENETTON R11 ベルギー 【決勝最高位】🏆️優勝(3回) 1995年 BENETTON R8 イギリス 1995年 BENETTON R12 イタリア 1999年 STEWART R14 ヨーロッパ 【年間最上位】❹位 1995年 BENETTON 45ポイント
240121 J.HERBERT 2000 8FW12C
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1974 (42ND) SPARK BRABHAM BT44 R.ROBARTS
ゴードン・マレー作 BRABHAM BT44 新人 R・ローバーツ デビュー 1974年ブラバムはカルロス・ロイテマンの チームメイトとしてイギリス出身の 開幕から新人リチャード・ロバーツを起用 ブラバムは資金不足を補う為 ロバーツの持ち込み資金期待 BT44はゴートン・マレー作のBT42の 2分割ラジエター収納のスポーツカーノーズ 三角断面モノコックを継続して採用 ロバーツはR2アルゼンチンの決勝15位が最高 R3終了時で持ち込み資金が不足し代りに オペル一族のリッキー・フォン・オペルに シートを奪われその後複数のドライバ―に交代 ロバーツはイソ・マールボロ(ウイリアムズ)で R7スウェーデンGPエントリーも決勝は未出走 F1の参戦は1974年限りで終了 モデルはスパーク 開幕戦アルゼンチンGP仕様 キャリアベストリザルトの予選23位 決勝は35/53でギアボックスが壊れリタイア スポンサー獲得が難航してマシンは テスト仕様のようにまっ白でカーナンバー⑧と GOODYEAR・CAMPIONプラグのロゴのみ存在
231222 R.ROBARTS 1974 8FW12C
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1999 3RD HOT WHEELS JORDAN MUGEN HONDA199 H.H.FRENTZEN〖🏆2〗
フレンツェン ベストシーズンの活躍 年間2勝 JORDAN MUGEN HONDA199 1999年 フレンツェンはジョーダンに移籍 チーム・メイトはデーモン・ヒル 前年度加入のマイク・ガスコインが手掛けた ジョーダン199はローダウンサーキット 中心にマシンの威力を発揮 フレンツェンは戦略が決まった R7フランスGPでシーズン初勝利 R13イタリアGPは予選2位から トップのハッキネン(マクラーレン)の ミスにも助けられてシーズン2勝目を上げ この時点ではチャンピオン争いにも加わった 最終チーム61ポイント中54ポイントを フレンツェンが稼ぎ出し ジョーダン史上チームベストの コンストラクタ―3位を獲得 自身も年間3位となり キャリアベストシーズンの活躍であった (ベストリザルトは1997年 年間2位) モデルはHOT WHEELS ジョーダンのチームロゴと 右下には紅白の縁石のある台座で このデザインは1999年モデルのみ ミニチャンプス(画像2)からは チームセットでドライバ―フィギュアと カーナンバー無でリリースされている
231115 H.H.FRENTZEN 1999 8FW12C
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1982 5TH SPARK McLAREN MP4/1B N.LAUDA〖🏆2〗
2年ぶり復帰のニキ・ラウダ 混戦の1982年2勝 McLAREN MP4/1B 1979年末に突如引退したラウダ 1982年マクラーレンで電撃復帰 チームメイトはジョン・ワトソン 当初復帰に関してはマクラーレン側も ブランクや怪我の後遺症を考えて 開幕戦から4戦目までのスポット契約 開幕戦南アフリカGPで4位入賞すると R3アメリカWESTで予選2位より優勝 ファステストラップも記録 この年の3番目のウイナー(全11名) その後R10イギリスGPで2勝目をあげ チームもワトソンと合わせ合計4勝 ラウダの復帰と共にマクラーレンも 復活を印象づけるシーズンとなった モデルはスパーク 台座はMP4-1BとなっているがMP4/1Bの間違い ラウダの復帰初勝利となった R3アメリカWEST GP使用 予選2位→決勝WIN Marlboroデカール加工をしてあります 1980年以降のマクラーレンで ミニチャンプス唯一発売していないのが 1982年のマクラーレンMP4/1B
231104 N.LAUDA 1982 1回FW12C
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2003 6TH PMA RENAULT R23 F.ALONSO
フェルナンド・アロンソ 初表彰台 初優勝 RENAULT R23 2001年ミナルディでデビューの フェルナンド・アロンソは1年ブランク後 2003年ルノーでF1に復帰 チームメイトはヤルノ・トゥルーリ 開幕戦オーストラリアで初入賞7位 R2マレーシアで初PPから 決勝初表彰台3位獲得 その後も入賞を重ねて R13ハンガリーで2度目のPPより 決勝で初優勝を果たす 現在までのアロンソの優勝は32回 また初表彰台の2003年R2マレーシアGPから 2023年R13オランダでの2位表彰台は ミハエル・シューマッハがもっていた 記録を更新して最初と最後の表彰台の 最長ギャップ20年5ヶ月4日後となった まだまだ更新されそうです 2003年はチームメイトのトゥルーリを 圧倒して年間55ポイントで順位は6位 モデルはミニチャンプス MILD SEVEN仕様に加工しています
230831 F.ALONSO 2003 1回FW12C
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1980 16TH SPARK McLaren M29 A.PROST
4 TIMES WORLD CHAMPION アラン・プロスト デビュー McLaren M29 1979年ヨーロッパF3 13戦9勝 圧倒的勝利でチャンピオン獲得 マルボロの支援もあり マクラーレンのテストを受けて 同時に参加したケビン・コーガンのみならず レギュラードライバーのジョン・ワトソンより 速いタイムを出し1980年のシートを獲得する 1980年開幕戦アルゼンチンGP 予選でワトソンを上回り12位を獲得 決勝はデビュー戦にて6位入賞 プロストの生涯入賞回数は128回 その中で表彰台が106回 4位以下の入賞は22回と少ない 続くR2ブラジルでも決勝5位入賞も R3南アフリカの予選でマシントラブル起因の クラッシュで手首を負傷しR4も欠場 年間では4度の入賞5ポイント年間15位 ワトソン6ポイント 年間11位わずかに及ばず 翌1981年はマクラーレンとの複数年契約が あったが地元ルノーからのオファーを受け移籍
230612 A.PROST 1980 8FW12C
