- Sekisentei Japanese Mineral Museum
- 46F 鉱山絵葉書 Mining Postcards
- 小坂鉱山 コンバータ内部/秋田県鹿角郡小坂町 PC016-03
小坂鉱山 コンバータ内部/秋田県鹿角郡小坂町 PC016-03
「最近の小坂鉱山」から「コンバータ内部」です。コンバータ(converter)はもともと鉄の製鋼用に開発された金属精錬専用炉の一種ですが、銅の精錬にも応用されています。黄銅鉱等の銅鉱石を浮遊選鉱により銅含有量30%程度にしたものを銅精鉱といい、これを自溶炉に吹き込んで、自身の酸化熱により、銅品位65%のマットと酸化鉄・珪酸などからなるスラグに溶解・分離します。このマットを精錬用の回転可能なコンバータに投入し、底部から酸素富加空気を吹き込んで更に酸化させ、銅品位約99%の粗銅を得ます。コンバータの名前は銑鉄を鋼に転換(convert)することに由来し、日本語では「転炉」と呼ばれます。
小坂鉱山の発見は1680年代に遡るとされていますが、1861年(文久元年)頃、元山鉱床の露頭が発見され金・銀鉱山として南部藩による開発が始まりました。1869年(明治2年)から明治政府による官営となり、その後1884年(明治17年)には藤田組(当時、現DOWAホールディングス)に払い下げられました。小坂鉱山で当初採掘対象となったのは黒鉱が長い時間をかけて風化した土鉱と呼ばれる鉱石で、1トンあたり数百グラムの銀を含み、1901年(明治34年)には銀の生産高日本一になりましたが、土鉱の枯渇と金本位制の拡大による銀価格の暴落により小坂鉱山は閉山の危機に直面しました。土鉱の下に大量の黒鉱が埋蔵されていることは当時から判っていたものの、黒鉱は精錬が極めて難しく、事業化は不可能とされていました。しかし久原房之助が明治35年(1902年)に「生鉱吹き法」と呼ばれる鉱石中に含まれる硫黄分を熱源として利用する独自の製錬技術を開発、これにより、黒鉱から金・銀・銅・鉛・亜鉛など15種類の有用金属元素を取り出して製品化することに成功し、以後大型の溶鉱炉を建設するなど順次生産規模を拡大し、国内有数の銅製錬所としての地位を確立しました。更に金銀などへ製錬事業を展開しながら1907年(明治40年)には生産額日本一を記録、1905年(明治38年)には旧小坂鉱山事務所、1910年(明治43年)には芝居小屋の康楽館(いずれも国の重要文化財)が竣工しています。第二次世界大戦直後に資源の枯渇等を理由に採掘が中断されましたが、1959年(昭和34年)に内の岱鉱床と呼ばれる新鉱脈が発見され、1962年(昭和37年)に採掘を再開、1990年(平成2年)まで存続しました。なお、小坂鉱山は閉山しましたが、製錬所は今も存続しており、その技術を活かして多様な金属元素のリサイクル事業を展開しています。
