三井神岡鉱業所 栃洞坑内竪坑巻下機/岐阜県飛騨市 PC010-02

0

回転式ドラムで鋼鉄製ワイヤーを巻き取り、竪坑で人や荷物を垂直方向に移動させるための設備です。巻下機は基本的に人や荷物を降ろすための機械で、鉱山の竪坑では、鉱石や作業員を地下に安全に降ろすために使われました。一方人荷を引き揚げるために用いられるのが巻揚機(ウインチ)ですが、巻揚機には切り替えにより巻下機として機能するものも多く、両者はあまり区別されないこともあります。

神岡鉱山は、約2億5千万年前にできたとされる飛騨片麻岩の中に含まれる結晶質石灰岩を火成岩起源の熱水が交代したスカルン鉱床で、亜鉛、鉛、銀、石灰岩などを産出しました。神岡鉱山の採掘は奈良時代養老年間(720年頃)には既に始まっており、1589年(天正17年)、豊臣秀吉により飛騨に封じられた金森長近の家臣糸屋彦次郎(後の茂住(もずみ)宗貞)が鉱脈を発見し、金山奉行として茂住鉱山、和佐保銀銅山を経営しました。江戸時代には飛騨地方は天領(幕府領)となり、明治維新後の1874年(明治7年)に三井組が栃洞(とちぼら)坑を買収、1889年(明治22年)には茂住坑を取得して神岡鉱山全体の経営を握りました。三井組とその後身である三井鉱山、三井金属鉱業は神岡鉱山の近代化を進め、1968年(昭和43年)には栃洞坑に国内初のトラックレスマイニング法(トロッコなどの軌道を使用せず、坑道を全て斜坑でつなげる採掘方法)を導入するなどして大規模採掘を続け、神岡鉱山は東洋一の鉱山と呼ばれました。2001年(平成13年)に閉山するまでの総採掘量は、約130年間で7,500万トンに達したとされています。その一方で、閃亜鉛鉱に含まれるカドミウムを原因とし富山県神通川流域で大規模な公害病被害(イタイイタイ病)が発生し、多くの人々が長年にわたり苦しみました。なお、茂住坑跡地には東京大学宇宙線研究所によってニュートリノ観測装置であるスーパーカミオカンデが設けられています。

Default