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鴻之舞鉱山 大山祇神社/北海道紋別市 PC020-07
大山祇(おおやまづみ)神社は愛媛県今治市大三島町に鎮座する日本総鎮守、伊予の国一之宮で、古事記・日本書紀には「山の神」とあり、伊予国風土記では山の神であると同時に、大海原の神、渡航の神とされているとのことです。鴻之舞鉱山では住友による買収・開発と共にこの大山祇神社の御分社が手厚く祀られ、鉱山(ヤマ)の神様として信仰されていました。1973年(昭和48年)の閉山後は住友金属鉱山により丁寧に大三島町の本社に還御されたとのことです。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量では菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 恩栄館/北海道紋別市 PC020-06
鴻之舞鉱山20周年記念事業として1937年(昭和12年)に劇場と映画の設備を備えた中央集会場として建設されたのが「恩栄館」で、収容人員は2,500人以上と云われました。一階と二階の座席は6人掛けの木製長椅子で、二階に畳敷きの横見席があったとのことです。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量では菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 精金作業/北海道紋別市 PC020-05
この絵葉書に写っているのは全泥式青化製錬で得られた沈殿物(金銀殿物)を乾燥、焙焼した上で重曹、硼砂などの溶剤を加えて傾転式溶解炉で溶解し、不純物の多いカラミと呼ばれる鉱滓(こうさい)を分離する工程です。カラミを分離した後の溶解物が青金と呼ばれる金銀合金で、ドーレと呼ばれる金品位約90%の延べ棒に加工されます。これらの一連の工程を精金作業といいます。ドーレは同じ住友傘下の新居浜や瀬戸内海の四阪島の精錬施設に航送され、電解精錬により、純金・純銀に加工されました。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量では菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 青化場金銀沈殿装置/北海道紋別市 PC020-04
鴻之舞鉱山には1927年(昭和2年)に湿式製錬の一種である全泥式青化製錬法を用いた製煉所が設けられました。手選を経た金銀鉱石はコニカルミル等の磨鉱機による複数段階の処理を経て泥状になるまですりつぶされ、消石灰を投入して強アルカリ性を保ちつつ加水し、スラリーと呼ばれる懸濁液にします。このスラリーにシアン化ナトリウムやシアン化カリウムを0.1~0.3%含んだ水溶液を加え、更にコンプレッサーで酸素を供給しながら2昼夜にわたりアジテーターで攪拌し、金を水溶性の [Au(CN)2]−に変化させます。撹拌を終えたスラリーを濾過して得られた溶液を貴液と呼び、この貴液から今度は真空装置で酸素を除き、シアン酸イオンと結び付きやすい亜鉛粉末を加えて金銀を析出・沈殿させます。更に沈殿物中の亜鉛粉末を硫酸で溶解除去し、残った沈殿物(金銀殿物)を回収し、次工程の精金作業に進みます。絵葉書に写っているアコーディオン状に見える装置は貴液を得るための縦型リーフフィルターと呼ばれる濾過装置です。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量では菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 選鉱作業/北海道紋別市 PC020-03
坑内の採掘現場から搬出され、ブレーキクラッシャーと呼ばれる破砕機で砕かれベルトコンベアによって運ばれてきた鉱石を、防塵マスクをつけた女性作業員が肉眼で選別している手選鉱(手選、てせん)の作業光景です。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量は菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 製錬所全景/北海道紋別市 PC020-02
鴻之舞鉱山を買収した住友総本店は直ちに製錬所建設に着手、翌1918年(大正7年)に日量15トン処理可能な製錬所を完成させ、操業を開始しました。1924年(大正13年)には火事で製錬所が全焼するという事故に見舞われたものの、再建後製錬設備は数次に亘り増強され、1928年(昭和3年)には日量140トン、1936年(昭和11年)には日量1,200トン、1942年(昭和17年)には日量3,000トン処理可能な製錬設備が完成しました。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量は菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 元山第二通洞鉱石運搬/北海道紋別市 PC020-01
通洞坑(つうどうこう)から鉱車で鉱石を搬出する光景です。通洞坑は運搬・排水・通気などのため坑口から水平に掘削された主要坑道のことです。鴻之舞鉱山で最初に開発された元山鉱床には第一~第三の通洞坑が設けられましたが、第二通洞坑は1925年(大正14年)に完成しました。坑口の脇に開坑日と改修日を記したプレートが写っており、改修年は「昭和拾年」と読めます。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量は菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 絵葉書セット袋/北海道紋別市 PC020-00
絵葉書のセット袋に住友の井桁マークが入っており、恐らく住友総本店(後の住友金属鉱山)が昭和10年代に作らせたものと思われます。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量は菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 青化場/北海道紋別市 PC009-01
この絵葉書には「住友鴻之舞鉱業所 青化場「メリル」金銀沈殿装置」とあります。青化法(せいかほう)は、シアン(青酸)化合物の水溶液に金が溶けることを利用して低品位の金鉱石から金を浸出させる湿式製錬技術です。金銀鉱石はブレーキクラッシャー等の破砕機で砕かれ手選鉱された後、コニカルミル等の複数段階の磨鉱機で泥状になるまですりつぶされ、加水されスラリーと呼ばれる懸濁液になります。このスラリーにシアン化ナトリウムやシアン化カリウムを0.1~0.3%含んだ水溶液を加え、更にコンプレッサーで酸素を供給して2昼夜にわたりアジテーターと呼ばれる機械で攪拌し、金を水溶性の [Au(CN)2]−に変化させます。撹拌を終えたスラリーを濾過して得られた溶液を貴液と呼び、この貴液から今度は真空装置で酸素を除き、シアン酸イオンとの化学親和性の強い亜鉛粉末を加えて金銀を析出・沈殿させ、沈殿物中の亜鉛粉末を硫酸で溶解除去し、これを更に濾過して残った物質(金銀殿物)を溶融製錬しドーレと呼ばれる青金(金銀の合金)の延べ棒に加工します。この延べ棒は同じ住友傘下の新居浜や瀬戸内海の四阪島に航送され、電解精錬により、純金・純銀に加工されました。 絵葉書にある「メリル」とは、貴液を脱気の上、亜鉛粉末を加えて金を沈殿させ、次いで沈殿物から亜鉛を除去し金を精製する基本的なプロセスを確立し、1910年(明治43年)に特許を取得した米国の製錬技術者Charles Washington Merrill (1869年〜1956年)のことで、アコーディオン状に見えるのは貴液を得るための縦型リーフフィルターと呼ばれる濾過装置です。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量は菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 全景/北海道紋別市 PC014-01
この絵葉書は鴻之舞鉱山の全景を写したもので、「鴻ノ舞鉱山 住友の経営にかかる金鉱山にして産金全国一近年躍進的発展を為しつつあり管内金鉱山七、年産五百万円に及ぶ」(林業会北見支社) とあります。 鴻之舞鉱山の年間産金量は1936年(昭和11年)に2トンを超え全国一になっており、1940年(昭和15年)には金約2.5トン、銀約46トンを生産しています。しかしその後太平洋戦争の開戦に伴い金による軍需物資の輸入が困難となったことに伴い1943年(昭和18年)に金山整備令が発令され、鴻之舞鉱山は休山し、保坑鉱山となりましたので、本絵葉書は恐らく1940年(昭和15年)前後に制作されたものではないかと思われます。 絵葉書にスタンプが押されている「大江本家」は、北見市留辺蘂(るべしべ)町の温根湯(おんねゆ)温泉の開祖の一つで、1899年(明治32年)に温泉出願許可を受けており、1911年(明治44年)以降「大江本家」を名乗り、現在も営業中です。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量は菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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金銀鉱石(gold-silver ore) 鴻之舞鉱山 元山本鉱床露頭 #0200
本標本は元山本鉱床の露頭から崩落した鉱石で、切断面には輝銀鉱(argentite)の微粒が濃集する帯状や斑点状の銀黒が観察できます。残念ながら金は肉眼では確認できません。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされています。金生産量は菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本有数の大規模金銀山でした。
北海道紋別市鴻之舞 スモールキャビネットサイズ 鴻之舞鉱山石泉亭
