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辰砂 (cinnabar) イトムカ鉱山 #0727
イトムカ鉱山は自然水銀や芋辰砂と呼ばれる高純度の硫化水銀塊を産出したことで有名ですが、本標本では母岩に鉱染状に辰砂が沈殿しています。辰砂(硫化水銀、HgS)は常温では安定な化合物のため、美しい赤色のままで退色せず、岩絵具や朱肉の原料として使われました。 1936年(昭和11年)に暴風雨による倒木を撤去するための搬出道路を開削中に良質の辰砂が発見されたのをきっかけに、1939年(昭和14年)に旧野村財閥系列の大和鉱業(翌年野村鉱業と改称、現野村興産)がイトムカ(アイヌ語で”光輝く水”の意)鉱山と名付け、採掘と製錬に着手しました。粗鉱中に自然水銀が多く含まれていたため、選鉱の前段階で比重を利用した捕集器で自然水銀が採取され、次いで浮遊選鉱が行われました。 水銀は貴重な軍事物資として増産が図られ、1944年(昭和19年)には約190トンを生産し、東洋一といわれる水銀鉱山となりました。戦後も一時期を除き生産が続けられ、1964年には生産量が2,474トンに達しましたが、より安価な海外産鉱石の流入や公害問題への関心の高まりを受け1970年(昭和45年)には生産規模が大幅に縮小され、1973年(昭和48年)に採掘中止、閉山となりました。イトムカ鉱山の総生産量は約3,300トン、これは明治以降日本で生産された水銀の約60%に相当するといわれています。翌1974年(昭和49年)に野村興産はイトムカ鉱業所を含水銀廃棄物処理プラントに転換、現在でも水銀を中心としたリサイクル事業を継続しています。
硫化鉱物 北海道北見市留辺蘂(るべしべ) スモールキャビネットサイズ石泉亭
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辰砂 (cinnabar) 和佐水銀鉱山 #0479A/B
辰砂は硫化水銀からなり、水銀の重要な鉱石鉱物です。本標本では石英質の母岩上に暗赤色の辰砂が晶出しています。写真1~3枚目が標本A、4~5枚目が標本Bとなります。1枚目(標本A)と4~5枚目(標本B)は背景をソフトウエア処理しています。 和佐水銀鉱山の所在地の旧地名は丹生村和佐で、この地名で想像されるように、この地域では古くから辰砂が採掘されていたようです。
硫化鉱物 和歌山県日高郡日高川町和佐 ミニチュアサイズ石泉亭
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辰砂 (cinnabar) 神生水銀鉱山 #0444
辰砂は硫化水銀からなる水銀の重要な鉱石鉱物です。本標本では中央部の表面を辰砂の微細な結晶が帯状に覆っています。(1枚目~3枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 神生(かみおい、かみお)水銀鉱山は明治初年に探鉱・開坑されたと云われ、1900年(明治33年)に農商務省鉱山局が出版した日本鉱産誌に「大和国宇陀郡宇賀志村駒帰。ヒヤケ外六字」として鉱床が記載されています。戦後1946年(昭和21年)にも探鉱が行われ、翌年から相当量の水銀鉱石を出鉱しました。レトルト炉式の製錬所を設置し、宇陀市内に点在した水銀鉱山の中では大和水銀鉱山に次ぐ生産量を有し、1961年(昭和36年)まで操業していました。
硫化鉱物 奈良県宇陀市菟田野駒帰 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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辰砂 (cinnabar) 大和水銀鉱山 #0321
辰砂は硫化水銀からなり、水銀の重要な鉱石鉱物です。本標本では珪化した粗粒の石英を含む母岩に、暗赤色の辰砂が浸潤しています。(1枚目~2枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 大和(やまと)水銀鉱山は飛鳥時代聖徳太子が開山したとも伝えられる日本最古級の水銀鉱山です。水銀鉱床の母岩は領家花崗岩(りょうけかこうがん)類で、鉱石の大部分は水銀の硫化物である辰砂でした。古代から辰砂は赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重され、また水銀は金鍍金(めっき)の材料としても用いられました。近代に入ってからは積極的な探鉱が行われ、1909年(明治42年)に景山和民氏が有望な露頭(鉱脈)を発見、手選した高品位鉱石をレトルト炉で焙焼・製錬する形で小規模な水銀の生産を始めました。その後1931年(昭和6年)に大和水銀鉱業が米国からロータリーキルン炉(鉱石の投入と処理を随時、かつ連続的に行える回転式炉)を輸入、高品位の鉱石はレトルト炉で、低品位の鉱石はロータリーキルンで焙焼する方式を採りましたが成果は思わしくなく、山元での製錬を中止し、終戦までの間は大阪市内の他社の水銀製錬所に売鉱していました。1955年(昭和30年)に鉱山が野村鉱業に譲渡され、野村鉱業は大和金属鉱業を設立し、再びロータリーキルンなど最新設備を導入し、大和水銀鉱山産の鉱石のみならず近隣の旧鉱および全国各地の旧水銀鉱山を探鉱・試掘するなどして水銀の増産に努め、最盛期には月産水銀生産量は最大4トンに及びました。しかし、製錬過程で発生するヒ素などの有害物質が環境問題を招いたほか、1970年(昭和45年)前後には水銀公害(水俣病)が深刻な社会問題となっており、水銀需要の低迷もが重なって、1971年(昭和46年)に閉山しました。
硫化鉱物 奈良県宇陀市菟田野大澤 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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辰砂・鶏冠石 (cinnabar/realgar) 丹生鉱山 #0424
本標本では暗赤色の辰砂の脈と、母岩の表面に見られる橙赤色の鶏冠石脈が混在しています。黄色く見える鉱物は鶏冠石が光に当たって異性化したパラ鶏冠石と思われます。(背景はソフトウエア処理しています。) 辰砂を空気中で 400~600 °C に加熱すると水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生じ、この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製します。日本地質学会は辰砂を「三重県の鉱物」に選定しています。 丹生鉱山は中央構造線上に位置し、花崗岩質を母岩とする裂化充填鉱床で、同鉱山に隣接する池ノ谷・新徳寺・天白遺跡からは、粉砕した辰砂を利用した縄文土器や辰砂原石や辰砂の粉砕用に利用したと見られる石臼も発見され、更に40か所以上に及ぶ採取坑跡が付近から発見されており、辰砂の色彩を利用した土器の製造と辰砂の採掘・加工が行われていたことが判明しています。この鉱山の名称であり、地名ともなっている「丹生」とは、丹土(朱砂…辰砂)が採取される土地の事を指すとする説が有力です。この辺りでは「丹生千軒」という呼称が言い伝えられ、奈良朝時代から我が国最大級の鉱山村落として栄えていたことが推察されます。 東大寺大仏鋳造の塗金には、当地の「伊勢水銀」がアマルガムの材料として大量に用いられたといわれています。 近代に入り、1940年(昭和15年)北村覚蔵が独学で探鉱を開始するも研究途上に逝去し中断、戦後の1954年(昭和29年)、北村の妻芳子と鉱山技術者であった中世古亮平が再開発に着手し、北村覚蔵が遺した資料を元にレトルト炉を構築、1955年(昭和30年)、本格的な操業を開始し、1956年(昭和31年)には34.5kg鉄製フラスコに充填された水銀地金2本を大阪の業者に売却しています。その後、鉱業権が大和金属鉱業(現・野村興産)に譲渡され、同社による探鉱が続けられ、1968年(昭和43年)に丹生鉱業所が開設され、1970年(昭和4年)年に採掘が開始されましたが、1973年(昭和48年)年に閉山しました。
硫化鉱物 三重県多気郡多気町 ミニチュアサイズ石泉亭
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辰砂 (cinnabar) イトムカ鉱山 #0439
とても小さな標本ですが、高品位の硫化水銀鉱石で芋辰砂と呼ばれたものです。イトムカ鉱山発見時に見つかった芋辰砂は握りこぶし大の大きさだったそうです。 1936年(昭和11年)に暴風雨による倒木を撤去するための搬出道路を開削中に良質の辰砂が発見されたのをきっかけに、1939年(昭和14年)に旧野村財閥系列の大和鉱業(翌年野村鉱業と改称、現野村興産)がイトムカ(アイヌ語で”光輝く水”の意)鉱山と名付け、採掘と製錬に着手しました。粗鉱中に自然水銀が多く含まれていたため、選鉱の前段階で比重を利用した捕集器で自然水銀が採取され、次いで浮遊選鉱が行われました。 水銀は貴重な軍事物資として増産が図られ、1944年(昭和19年)には約190トンを生産し、東洋一といわれる水銀鉱山となりました。戦後も一時期を除き生産が続けられ、1964年には生産量が2,474トンに達しましたが、より安価な海外産鉱石の流入や公害問題への関心の高まりを受け1970年(昭和45年)には生産規模が大幅に縮小され、1973年(昭和48年)に採掘中止、閉山となりました。イトムカ鉱山の総生産量は約3,300トン、これは明治以降日本で生産された水銀の約60%に相当するといわれています。翌1974年(昭和49年)に野村興産はイトムカ鉱業所を含水銀廃棄物処理プラントに転換、現在でも水銀を中心としたリサイクル事業を継続しています。
硫化鉱物 北海道北見市留辺蘂(るべしべ) サムネイル石泉亭
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辰砂 (cinnabar) 旭水銀鉱山 #0438
石英質の石の空隙に深紅の結晶質の辰砂の細粒が点在する本産地の典型的な産状を示す標本です。 旭水銀鉱山は1965年(昭和40年)に林道の工事関係者が沢の露頭転石に辰砂を発見したのを端緒として開発されたとのことですが、昭和40年代のうちに閉山になったようです。
硫化鉱物 北海道常呂郡置戸町 ミニチュアサイズ石泉亭
