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帰り道は遠かった/サブ・アンド・ビート 自主製作GS
秋田のとあるスナックのトイレで、作家の藤本義一がトイレット・ペーパーに書いた歌詞を、作曲家でジャズ・ギタリストの奥村英夫が作曲して生まれた一曲。二人はかつて大阪でのイレブンピーエムの出演者で、ロケで訪れた秋田での逸話だそうです。当然この曲は「チコとビーグルス」で大ヒットして世に知られ、東京を追われた(笑)ザ・ジェノバもカバーしてシングルをリリースしています。が、このレコードはそれら以前に製作されたオリジネイターの奇盤とでもいいましょうか。1966年に結成された大学生によるセミプロのトリオで、67年の夏に奥村氏と知り合い、68年の夏にはこの盤を製作したということのようです。ジャケット裏のライナーには、この曲を名付けて「民謡ロック」と書かれておる。笑い。確かに民謡そのものの合いの手が。セーノで一発で録ったのでしょうが、演奏は遠く、ボーカルとハーモニーだけ近く、そのアンバランスさも最高です。楽曲そのものは知名度の高いポップ・チューンなので、その事実と録音状態のあまりのギャップが味わい深いですね。ちなみに、この曲と同名の奥村氏の自伝では、いきなりチコとビーグルスに歌わせたことになっている。絶対に、先にこちらで録音したはずですが、無視黙殺の憂き目だ。可哀想・・
民謡ロック 7" Single キング揖斐是方
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コミュニケイション/アイ高野とロックン・ロール・フレンズ カーナビーツ・カップス・クリエーション
鎌田のキース・ムーンと呼ばれキャシー中島の餌食となった16歳、高野モッチン元成さんは55歳で逝去、なんとしても惜しまれます。極めて至近距離で彼の歌と演奏を聴いたことがありますが、パワフルこの上ない見事なものでした。〽おまえのーすぺーてえで一世を風靡した彼が、カーナビーツ解散、ソロ、ゴールデン・カップスでの活動の後に、1977年におそらくひっそりと発表したアルバムです。Cdにはなっていない模様。このあとにクリエーションに加入してもう一花咲かせるわけですが。本作は「カレンダー・ガール」「悲しき街角」「悲しき願い」「ストップ・ザ・ミュージック」などアメリカン・オールディーズを集めた企画アルバムなんでしょうが、果たして彼自身が意欲的に能動的にリリースの意志をもっていたものなのか否か。極めて疑わしいのです。何故なら、その歌声は三枝守ことマヌーさながらの、極めて事務的に熱量とパワーのない仕事をただこなしているだけといったものであり、77年と言う、たぶんGSの残党たちのほとんどがきわめて苦境にたたされていた時代の救済措置的な企画レコードの感がどうしても拭えないのです。ただし参加メンバーは高野氏の人徳を反映したような豪華な面子が集められたようです。柳田ヒロ、竹田和夫、柳ジョージ、トミー・スナイダー、スティーブ・フォックス、浅野孝巳、沖津ひさゆき、エディ潘、ジョン山崎、ミッキー吉野、林恵文ら。つまりカップス/ゴダイゴ人脈ということでしょう。しかしやっぱり、収録されている楽曲はどれもみな、ソツのない、当たり障りのない、フックのない、これといった特筆すべきものがみあたらない凡庸な出来に終始しています。残念。
オールディズ LP, Album ビクター揖斐是方
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麻雀。というよりマジューンかマージュンか、フレンチ・サイケデリアの傑作ファースト。
古くはアーバン・サックスのマネージャー、その前がラード・フリーのスタッフかなんか、そしてまだ大学生の頃には、パリのクラブで泥酔する晩年のモリスンを発見、面倒をみてやったことでお馴染みの友人、ギーユ・肉をくれっ・イェプリミアンとは、2000年ごろからか、このアルバムのCD化を巡っていろいろと情報を交換するも、しかしどこからもまったくリリースの気配なしと半ば諦めていたところに2022年、ソフルコンテニュー・レーベルからチェコ盤としてようやく登場しました。バンドのライセンス下に正式リイシューされたもののようです。スペシャル・サンクスのクレジットには彼の名前が筆頭に。さて71年といえば日本ではただひたすらポルナレフ旋風が吹き荒れる時勢、こうしたサイケ・プログレものは細々と国内盤が出ていたり出ていなかったり。演奏ではフルートやサックスをフィーチャーしたり、オリエンタリズムを感じさせる楽曲など、粗削りながらなかなかの意欲作として面白い作品に仕上がっています。バンドはこの後、1974年までに5枚ほどアルバムを発表しましたが、完成度が高まり洗練されていく以前の録音の方が往々にしてスリリングな愉しさがありますねロックでは。多くのバンドのアルバムにおいて。
サイケデリックロック CD ソフルコンティニュー揖斐是方
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ジェスチャーズの「ラン・ラン・ラン」の国内盤。但しベルベットでもシェケナでもない。
ジャスチャーなどという言葉を聞き真っ先に連想するのが水の江滝子だったり金語楼だったりした場合、勿論筆者もそうですが、今日まで色々とお疲れ様でしたの世代にはいっていると思います。これは米国60年代中期のバンドの代表的なスマッシュヒット。東芝音工で330円のシングルです。あのトラッシュメンとレーベルメイトだったようです。メロディアスな、ちょっと哀愁のあるメロディーでいかにもあの時代のヒットではあるのですが、日本では同期の尾藤イサオが「悲しき願い」で当てたのにあやかって、この曲は内田シェケナ裕也が日本語でカバーしてました。当然、世間はうんともすんともいわずコケたのですが笑。もしも万が一、シェケナのものもそこそこヒットでもしていたなら、この楽曲そのものの知名度も少しは上がったのかもしれません。#内田裕也
,ガレージ 7" Single ステーツサイド揖斐是方
