三井神岡鉱業所 鹿間鉛電解工場/岐阜県飛騨市 PC010-07

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栃洞坑に属する鹿間に鉛電解工場が設置されたのは1921年(大正10年)のことです。方鉛鉱を中心とする鉛の原鉱石は選鉱によって60~80%の鉛を含む精鉱とされ、精鉱の溶解を促進し不純物を取り除くためにフラックス(SiO2、CaCO3など)を加えて焙焼(ばいしよう)・焼結され、酸化鉛鉱塊が作られます。この鉱塊を溶鉱炉でコークスの燃焼によって発生する一酸化炭素によって還元すると溶融粗鉛が得られます。粗鉛にはしばしば金、銀、ビスマス、ヒ素、アンチモン、錫等も含まれているため、粗鉛に含まれている鉛以外の有用金属等を有利に分離・回収した上で、鉛の純度を高めるために精製が行われます。ビスマスを含む粗鉛に対しては一般にベッツ法と呼ばれる電解精製法が用いられます。ケイフッ化水素酸(H2SiF)とその錯塩であるケイフッ化鉛(PbSiF6)に、にかわを加えた電解液を電解槽に満たし、陽極には脱銅した粗鉛、陰極に鉛の薄板(種板)を用いて電解すると、陰極に高純度の鉛が析出し、金、銀、ビスマス、ヒ素、アンチモン等の不純物は不溶性のスライムになります。粗鉛に含まれていた錫は溶解して鉛とともに陰極に析出するので、析出した鉛を鉄の鍋で溶かし,苛性ソーダを添加してスズ酸ナトリウム(Na2SnO3)として除去します。ベッツ法では99.999%に及ぶ高純度の鉛を得ることが可能です。この絵葉書には極板を電解槽から引き上げる工程が写っています。

神岡鉱山は、約2億5千万年前にできたとされる飛騨片麻岩の中に含まれる結晶質石灰岩を火成岩起源の熱水が交代したスカルン鉱床で、亜鉛、鉛、銀、石灰岩などを産出しました。神岡鉱山の採掘は奈良時代養老年間(720年頃)には既に始まっており、1589年(天正17年)、豊臣秀吉により飛騨に封じられた金森長近の家臣糸屋彦次郎(後の茂住(もずみ)宗貞)が鉱脈を発見し、金山奉行として茂住鉱山、和佐保銀銅山を経営しました。江戸時代には飛騨地方は天領(幕府領)となり、明治維新後の1874年(明治7年)に三井組が栃洞(とちぼら)坑を買収、1889年(明治22年)には茂住坑を取得して神岡鉱山全体の経営を握りました。三井組とその後身である三井鉱山、三井金属鉱業は神岡鉱山の近代化を進め、1968年(昭和43年)には栃洞坑に国内初のトラックレスマイニング法(トロッコなどの軌道を使用せず、坑道を全て斜坑でつなげる採掘方法)を導入するなどして大規模採掘を続け、神岡鉱山は東洋一の鉱山と呼ばれました。2001年(平成13年)に閉山するまでの総採掘量は、約130年間で7,500万トンに達したとされています。その一方で、閃亜鉛鉱に含まれるカドミウムを原因とし富山県神通川流域で大規模な公害病被害(イタイイタイ病)が発生し、多くの人々が長年にわたり苦しみました。なお、茂住坑跡地には東京大学宇宙線研究所によってニュートリノ観測装置であるスーパーカミオカンデが設けられています。

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